牛頭天王のお姿
『峯相記』は、南北朝時代、
十四世紀の中頃に成立した播磨の地誌です。
広峰山の由来を記した、最も古い記録で、
以下のように記されています。
広峰山の牛頭天王
~『峯相記』より ~
牛頭天王のお姿
元正天皇の時代、霊亀二年(716)、吉大臣は唐の国(中国)に渡りました。
唐に十八年滞在し、十三の学問を修得、とりわけ陰陽道を得意としたそうです。
聖武天皇の時代、天平五年(七三三)に 真備は日本に帰り、広峰山の麓に一宿しました。
すると、夢現(ゆめうつつ)の中に貴人が現れ、
「私は古丹の家を追い出され、蘇民によって助けられた。さまよい歩いているが、いまだに居所が定まっていない。あなたと唐で約束したことを頼りに、ここまでおってきた」
と言いました。
そこで、広峰山にお祀りすることにしたのが、 牛頭天王の神です。
その後、数年が経って平安京が造営された時、東方を守護するため、祇園荒町(八坂神社)に勧請され たということです。
ですから、廣峯神社こそが本社ということでしょう。
なお、江戸時代の縁起では、素盞鳴命(すさのおのみこと)がこの山に来臨して長い歳月が経ち、知るものが少なくなったので、吉備真備の前に姿を現し、真備が聖武天皇に奏上する物語となっています。
『日本三代実録』貞観八年(866)の条 に、広峯に祀られる神は「素盞鳴神」として登 場しますので、素盞鳴神と牛頭天王は異名同体として信仰されていました。