ご由来
弥生時代、 崇神天皇が国を治めていた今より
おおよそ二千有余年の大昔に、
素戔鳴尊と五十猛尊を白幣山に祀ったのが
当社のはじまりです。
社伝では神宮皇后が三韓征伐に出兵する途中
この地に寄られ白山に登り、
素戔嗚尊に皇軍の勝利を祈ったとあります。
廣峯神社のご由来
弥生時代、 崇神天皇が国を治めていた今よりおおよそ二千有余年の大昔に、素戔嗚尊と五十猛尊を白幣山に祀ったのが当社のはじまりです。
社伝では、神宮皇后が三韓征伐に出兵する途中、この地に寄られ白幣山に登り、素戔嗚尊に皇軍の勝利を祈ったとあります。
そして、三韓の平定に成功すると、帰国する際に再び白幣山に登られ、感謝のお祭りを行い、 小宮を建立されたと伝わっています。
奈良時代、聖武天皇が国を治めていた天平5年 (733) 遣唐使であった吉備真備公が帰朝する途中、素戔嗚尊の神託を受けられ、その旨を天皇に奏上し、翌年、白幣山に社殿を建立して廣峯神社と称しました。
また、 真備公は唐で学んだ陰陽道を世に広めたいと考え、 主祭神である素戔嗚尊を牛頭天王・武塔神に、奇稲田媛命を頗梨采女 ・ 歳徳神に、天照大御神との誓約で誕生した八王子の神々を八将神に配して、こよみを司る日本の暦神としました。
このことから廣峯神社は陰陽師たちが崇拝する聖地となっていました。
平安時代、素戔嗚尊の御子である天津彦根命の後裔で、 宮廷歌人・官人でもあった凡河内躬恒が醍醐天皇の勅命によって祭主となり、 その子恒寿が廣峯大別当に任ぜられ、 廣峯の姓を賜ってより明治に至るまで、代々にわたって大別当職(宮司)として神社に奉仕しました。
この大別当職とは、 最高の神主であると共に、 神領内の警察権をもつ惣追捕使・下司・公文・地頭や庁直職も兼ねていました。
円融天皇が国を治めていた天禄3年 (972)、白幣山から現在地にご本殿を遷座したのが、 今の廣峯神社です。
後白河天皇の編纂された 『梁塵秘抄』には、 関より西の軍神、 一品中山、安芸なる厳島、備中なる吉備津宮、播磨に広峯惣三所、淡路の石屋には住吉の宮とあるがごとく、 播州はもちろん朝廷でも広く尊崇されていました。
その後、廣峯勝賀は神主でありながら鎌倉幕府の御家人にもなった偉人で、武士としても大活躍し名声を高めました。
その孫の長祐は京都大番役という大役を務め、 4代後の貞長は廣峯城城主となりました。
鎌倉時代、廣峯神社は大変ご利益のあるありがたい神社として全国に知られるようになり、播磨国は言うに及ばず、他国からも崇敬のあつく我もわれもと道を争うように参詣し、その有様は紀州の熊野詣にも劣らないほどであったと、当時の様子が 『峰相記』に記されています。
その信仰圏は、畿内の一部、山陽道、山陰道の丹波・丹後・摂津・但馬・因幡・美作・備前・備後まで及び、 一地方の神社としてはありえない規模にまで膨らんでいました。
廣峯神社の歴史
廣峯神社について
白幣山から広峰山へ
「播磨鑑』(宝暦十二年(1762〉 序)は、牛頭天王を白幣山から広峰山に遷宮したのは天禄三年(972) のことであったと記しています。
狭隘な白幣山の社地と比べると、開けた広峰山は参詣に適していたのでしょう。
広峯信仰の根源の地である白幣山は、奥の院として信仰を集めています。
現在、白幣山には吉備真備を祀る吉備社と素盞鳴命 (牛頭天王)を祀 荒神社、その間に磐座が祀られて います。
この形式になるのは、明治中期以降のことです。
それまでは磐座 の上に吉備社の社があり、荒神社は 白幣山の麓に祀られていました。
本殿三所に祀られる御祭神
本殿は正殿、左殿、右殿の三所に分けられ、それぞれに神々が祀られ ています。
素戔鳴尊を中心に妻と子ども、そして、八王子神が祀られてい ます。
【正殿】
素戔嗚尊(牛頭天王)・五十猛命(素戔嗚尊の御子神)
【左 殿】
奇稲田媛命(素戔嗚尊の御后)・足摩乳命(奇稲田媛命の親神))
【右 殿】
八王子神(正哉吾勝々速日天忍穂耳尊、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、田心姫命、湍津姫命、市杵嶋姫命)
廣峯神社の登場
神社の由緒を説明する時、 「式内社」という表現を用いることがありますが、「式内社」とは延長五年(927)に編纂された「延喜式」の「神名帳」、当時の「官社」の一覧に登載さ れている神社を指しています。
廣峯神社は「神名帳」には登載されていませんが、「延喜式」ができる六十年前に官位が授けられていま す。
「日本三代実録』 貞観八年(866)の条に、播磨国の無位である素盞鳴神に従五位下を授けたことが記されています。
ここには詳しい所在地は記されていませんが、 播磨国を代表する素盞鳴神、廣峯神社のことと考えられています。
峯信仰のひろがり
室町時代に成立した「峯相記」は、廣峯神社について霊験あらたかで、信じる者には大きな御利益があると記しています。
また、播磨国だけでなく、その他の国々から多くの人が足を運んで崇敬する様子は、「熊野の御嶽」にも劣らないとあります。
広峯は、わが国を代表する霊場「熊野三山」に相当する霊場だというのです。
この時代、廣神社の御師は、播磨、丹後、丹波、摂津、但馬、因幡、美作、備前、備後において活動を展開させていました。
広峯は農耕の神として厚く信仰され、播磨一円の村々に深く浸透していました。
祇園本社と祇園末社
「峯相記」に「平安城を立てられし時、東方守護の為に祇園荒町に勧請し奉る」「当社を以って本社と云うべ し」と記されているように、廣峯神社は京都の八坂神社の本家「元祇園」とされています。
八坂神社に祀られ牛頭天王は、廣峯神社から遷られたと伝えられているのです。
廣峯神社が祇園本社であることは、建保四年(1216)「関東御教書」(廣峯神社文書)によれば、鎌倉将軍 源実朝も認めるところでした。
ところが、応長四年(1311)に広峰山が伏見上皇により八坂神社に寄進されることによって、「祇園末社」と位置づけられてしまいます。
そして、これ以降、牛頭天王の本家をめぐり、峯神社と八坂神社は争うことになります。
軍神(いくさがみ)
廣峯神社は農業の神として広く信仰されています。
ところが、広峰山には軍神、いくさ神としての信仰がありました。
この二面性を捉えて、広峰山の牛頭天王は、「本朝文武之 大祖神」(『村翁夜話集」)とも呼ばれていました。
平安時代末期、後白河法皇によって編まれた歌謡集『梁塵秘抄』は、当時、社会に流行していた歌謡を集成したものです。
その中に、次の歌謡が収載されています。
関より西の軍神、一品中山、安芸 なる巌島、備中なる吉備津宮、 播磨に広峯三所、淡路の石屋には住吉西の宮
ここに書かれている関は、近江国の逢坂の関のことです。
逢坂の関は山城国と近江国の境、畿内と東国の境となる重要な関とされていました。
この関から西にある有名な軍神として登場する「一品中山」は岡山県津山市の中山神社、「安芸なる島」は宮島の厳島神社、「備中なる吉備津宮」は岡山市の吉備津彦神社、「播磨に広峯惣三所」は姫路市の廣峯神社、「淡路の石屋には住吉西の宮」は淡路市の岩屋神社、堺市の住吉大社、西 宮市の広田神社を指しています。
「播磨に広峯惣三所」の「惣三所」は、本殿が正殿・左殿・右殿に分かれていることを意味していると考えられます。
廣峯神社の宮司家である廣嶺氏は「広峯社大別当」と称す鎌倉幕府の御家人でした。
廣嶺氏は、廣峯神社を拠点とする武士団の棟梁であり、軍神の信仰と結びついていました。
慶峯神社の鳥居
鳥居は、神域や神威を示す場所に建立されています。
廣峯神社には、 中世以来四つの鳥居があり、「東の鳥 居」、「北の鳥居」、「西の鳥井」、「南 の鳥居」と呼ばれていました。
東の鳥居は「太尾村」(姫路市豊 富町豊富)の「山隠」、北の鳥居は「須 加院村」(姫路市香寺町須加院)の東「練金峠」、西の鳥居は「石鞍村」 (姫路市石倉)の東「谷口」にありました。
南の鳥居には「一の鳥居」、「二の 鳥居」、「三の鳥居」がありました。
一の鳥居は船場川西の津田の細江、二の鳥居は飾磨津の清水町の北、三の 鳥居は山麓の平野村に建てられてい ました。
これらの鳥居は、広峯山が有した 広い信仰圏を示しています。
東の島居は北陸からの参詣者たち、西の鳥居と北の鳥居は山陰からの参詣者 たちを迎えるものでした。
また、南の一の鳥居は海路(飾磨津)からの参詣者たちを迎えるものであり、二の鳥 居は飾磨街道への入口でした。
禁裏御所の御撫物
江戸時代中期以降、廣峯神社は 勅願所として、禁裏御所・仙洞御所に「御進物」を献上していました。
「御進物」とは、身体の穢を除くた めに用いる人形などの呪物のことで す。
かつて、峯神社では正月十三日から十五日にかけて 「鬼会」 (疫神祭)が行われ、この鬼会に際して禁裏御所・仙洞御所の御進物と御幣物を供へ、「宝祚長久玉体安穏」の祈願が行われていました。
天皇・上皇だ けでなく、有栖川宮家や五摂家、藩主についても同様の祈願が執り行わ れました。
鬼会が終わると、年番の社家や関係者は行列を組んで都に上り、朝廷や宮家などに「御物」を献上し、古いものと新しいものとを引き換えました。
そして、廣峯神社では日々「御撫物」の祈祷が行われていました。
廣峯神社には、「御物」を入れた箱や京都との往来に用いた御釣台籠が伝えられています。
広嶺山牛頭天王から廣峯神社へ
廣峯神社は江戸時代に入ると、天台宗である東叡山寛永寺と本末関係を結び、「広嶺山増福寺」と称していました。
徳川将軍家が慶応三年(一八六七) に大政奉還すると、新政府のもとで神仏分離政策が進められました。
神仏習合の色彩の強い廣峯神社は、その影響を強く受けることになります。
広峰山はそれまで「広嶺山 「頭天王」と称してきました。
明治元年閏四月、「今般御一新」として「廣嶺社文武皇大神」への改称を願い出ますが、「廣峯神社」と改称されることになったのです。
HOME » ご由来